お世話になっております、ますをさんの記事を拝読していて、はたと気づきました。
以前、「頑張っている自分が好きだったのだと思う」と書いたけれど、
私も「頑張っている自分が好き」というより、頑張っていないと自分を認められなかったのかも、と。
(気づきをありがとうございました^-^ もし掲載を控えた方がよろしかった場合には、お手数ですがどこかで教えていただけましたら幸いです)
常に欠乏感があって、「私はダメだ」という思いがあって、だから、人の何倍も頑張らなければ、と思っていました。
自分を認められないから、頑張ることで、「頑張っている自分」を認めようとしていたのかもしれません。
「出来ている自分」や「頑張っている自分」でないと、認めたくなかったし、認められなかったような気がします。
どんな自分も認める
うつ病の快復過程で「どんな自分も自分と認める」ことをしてきました。
今まで目を背けてきたような自分の「嫌だな」と思う面とも向き合い、初めは傷に塩を塗りこむような痛みを伴っていたけれど、色々な面のある自分をどれも自分と認められるようになってきたら、随分と楽になりました。
「はぁ~~~まったく嫌になる」という自分の面も当然あるのだけれど、「それも自分」と認めていることで、その面が出たとしても、むやみやたらに責めることはせず、「そういう面も持ってるからね…だんだんと変えていこう」と気持ちを切り替えられるようになってきました。
今の自分を認めた上で、出来ることをしていく。
そう思って過ごしているこの頃です。
頑張るにしても
以前はめちゃくちゃ背伸びして頑張って、アキレス腱つってる!ということが多かったけれど(若い時にはそれはそれで良かった面もあったかもしれないけれど)、
今は、自分を認めた上でぼちぼちとやっていけるようになってきました。
言葉を変えると、現実の自分と折り合いを付けて、付き合って行けるように少しずつなってきたように思っています。
頑張るにしても、以前は明らかに跳べないハードルだろうと跳ぼうとしていたし、川の流れが逆流だろうと必死に漕いで目的地に着こうとしていたところがあったのですが、
現在は、「今はこれは跳べないな」と思うハードルは跳べるようになるタイミングを待ち、川の流れが逆流の時には無理に逆らわず、頑張る時には頑張りどころを見極めるようになってきた気がしています。
うつ病で気力体力が落ちて省エネを心がけるようになったことや、歳を重ねて若い頃のようにがむしゃらでは身が持たなくなったことの影響も一部あると思いますが…
良い悪いに関係なく自分を認められるようになってきたことが大きいのかな、と思っています。
おわりに
以前、友達からは「頑張り屋」「向上心が高い」としばしば言われていたけれど、その頑張りや向上心の元は「自分を認められない」という欠乏だったのかも、と思います。
「自分を認めた上で、よりよくなるように頑張る」のと、「自分はダメだ」を元にして頑張るのとでは、気持ちや負担感がだいぶ違うように感じています。
うつ病の快復過程で気づけた色々なことは、私にとって本当に大きなことだったと思っています。
人よりだいぶゆっくりなペースかもしれないけれど、一歩一歩、これからも歩んで行きたいと思います。
今日もお読みくださって、ありがとうございました^-^