うつ病から少しずつ良くなっていく中で、自分を遠くから眺めてみるような感覚を持つようになってきました。
第三者のように客観的に見ると、自分のことが以前より見えてきて「そうそう、私は昔からこういうとこあった」と思ったり、手のかかる仲間を見ているような感覚で「あ~~本当にしょうもないなぁ…しかしこれも私、なんとか良いところは生かしていこう」と思うようになりました。
自分を知る
自分を眺めて見るようになってきて、自分のことが以前よりもわかってきました。
そうして改めて知った自分。
「あなた、生きにくいわね…」と我ながら思います。
以前書きましたが、HSP(Highly Sensitive Personの略。生まれつき刺激に敏感で、周りからの刺激を過度に受け取ってしまう人のこと)の傾向もありますし、多分、注意欠陥障がいもグレー。
昔から忘れっぽく、大きなことだと小学生の時にランドセルを忘れてきたこともありました。
大人になってからは、友達の結婚式に行く際、結婚式に着る服を忘れて出かけてしまって、母親に駅まで届けてもらい、乗る必要がなかった新幹線に乗って行ったことも。
(他の荷物と一緒に置いていたのに忘れるという悲劇)
細かいことを挙げだしたらキリがないです。
そうした特性にプラスして完璧主義の傾向や考えすぎるなどなど、性格的なものが加わり、「あなた、疲れちゃうわよ」(なぜかバーのママや尾木ママが言っているような口調)という感じです。
そこに自分責めが加わり身がもたなくなり、うつ病になったんだよなぁ…と思います。
自分を知ると自分との付き合い方もわかってきた
自分を客観的に、俯瞰してみるようになってきて、何かやらかしたり感情が揺れ動いている自分とは別に、冷静な自分も側にいるようになりました。
例えば何か忘れてしまった時。
以前であれば、よく自分を責めていました。
今は、もう忘れてしまうことは私には注意していてもしばしばあることだという前提で、
「あ~~また忘れたんだね。ほんと、しょうもないねぇ。次から気を付けよう」
忘れて落ち込み始めたら、
「こんなことはしょっちゅうあるんだから、いちいち落ち込んでたら身が持たないよ」
そんな風に、冷静なもう一人の自分の言葉に我に返ることが出来るようになってきました。
世話のかかる仲間を見るような、母親が子どもを見るような感覚かもしれません。
また、以前よりも自分のことを知り、事前対策も前より講じるようになりました。
自分という道具の使い方
以前、図書館でお借りした松浦弥太郎さんの「メッセージ&フォト 今日もていねいに。」に、「自分という道具」というお話がありました。
もし自分が道具のひとつだったとしたら。
あなたという道具はどんな道具でしょうか?
何に役立つ道具でしょうか?どんな使い方があるでしょうか?
前述のように、私という道具は非常に使いにくい。
右手用の道具を左手の方が使うように、きっと使いづらい。
こんな使いづらい道具、使ってられるかーーー!と投げ出す訳にもいかない。
自分とは死ぬまで一緒。
なので、どうにかこの使いづらい道具を、使い方を考えて活かしていきたいと考えるようになりました。
現実は受け止める。
変えていけるところは変えていく。
対策できることは対策する。
良いところは伸ばしていく。
そうして、どうにかこうにか、自分という道具を使っていきたい。
また働いて社会に関われる時には、この使いづらい自分という道具がどうにか役に立てたらいいと思うし、どうにか少しは役に立てるような職を考えたいと思っています。
おわりに
「適職」や「適材適所」という言葉があるけれど、人間、様々な特性や性格があるので、適職であったり適材適所であることは、本人にとっても周りにとってもいいことだと思っています。
バランスがよく、様々なことをこなせるオールラウンドプレーヤーのような方はあまり気にしなくてもいいかもしれないですが、「私、けっこう得意不得意に差があるぞ」という場合は、自分の特性を知って、自分に合ったことをすることは大切なことだと感じます。
合わないことを無理やり頑張ってやっているとストレスも大きいし、どう頑張っても出来がいまいち振るわず、自信がなくなったり自分責めに陥ることもあるように思います。
そして自分責めが続くと、うつ病など心身の不調を来たすこともあります。
また、自分を知り、苦手なことに関しては「下手は下手なりに」の心持ちでいることもいいのでは、と思っています。
自分という道具の使い方。
使いづらさはあっても、何かの使い方は出来るはず。
あなたの良さが活きていきますように。