先日、祖母が亡くなった。
小学生の時から共に暮らしていた祖母。
お別れとなるその日まで、ただの一度も声を荒げた姿を見たことがなかった。
そして、「苦しい・辛い」とも、一言も言わなかった。
ぼそっと、「長く生かさせていただけるのは有難いけれども…」と言うのを数回聞いた程度。
私や両親とは価値観や考え方・生き方の異なる祖母で、単純に「おばあちゃん大好き」とは言えないところもあるのだが、私が結婚していた期間を除いて共に暮らしていたその間、見ていた限りただの一度も声を荒げなかったその姿は、本当に、すごいと思っている。
祖母を失い、改めて思う。
近しい存在との永遠のお別れは、自分の一部を失うことだ、ということ。
共に暮らしていた家族を今まで祖母含め3人見送っているけれど、その度に、自分の一部が失われる感覚がある。
もちろん、記憶はあるし、心の中に存在してくれているのだけれど、欠けている感覚になる。
新しい誰かと出会うことでまた新しい関係が生まれても、それはあくまでも新しい関係であって、失った存在の代わりには決してならない。
その存在は、その人だけ。
自分の心の中に占めるその位置は、その人しか、占めることができないもの。
生きていくということ・歳を重ねていくということは、
欠けた部分はそのままに、他の場所に新たなものが加わったりまた欠けたりしながら、形づくるもののような気がしている。
歳を重ねるほどに、出会いと別れを重ねて。
離婚して実家に帰ったことにより、そしてうつ病で働けなくなったことにより、
祖母の介護手伝いをする機会を得た。
まだまだうつ病が辛かった頃、祖母の下の世話をした時、祖母がかけてくれた「ありがとう」の言葉と笑顔を、私は強く覚えている。
病気がきつくて、頭も働かず体も動かず、色々なことができなくて、自分は生きている価値のない人間だと思っていた頃。
自分のことを役立たずだと思っていた時に、祖母の「ありがとう」は、こんな私でも少しかもしれないが役に立てることがあるんだと、思わせてくれた。
祖母の背中に薬を塗った時。
その歳まで生きてきた祖母の背中に触れながら、うまく言葉にできない、胸が締め付けられるような気持ちになった。
「気持ちいいわ~~~ありがとうね」
その一言が、心を温かくしてくれた。
小学生から両親と共に育ててくれた祖母に、半分もお返しはできていないと思う。
それでも、祖母の介護手伝いをする機会があって、少しでも祖母の助けができたことに、感謝している。
老いるということ、生き様。
目の前で見せてくれて、たくさんのことを教えてくれた。
おばあちゃん。
今までありがとう。